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英語参考書の変遷│ 『受験英語と日本人』を読んで

江利川春雄著『受験英語と日本人─入試問題と参考書からみる英語学習史』(研究社、2011)を読み終えました。

江利川氏は和歌山大学教育学部の教授です。業績を確認したところ非常に多作な方のようです。膨大な数の著書と論文を執筆しています(日本語でばかりですが)。日本英語教育史学会の会長でもおられます。英語教育界では著名な方で大津由紀雄・鳥飼玖美子・斎藤兆史と「4人組」なる英語教育シンポジウムをよく開いています。

本書は以下の構成になっています。

プロローグ 受験英語の巨星・伊藤和夫
第1章 受験英語の誕生(1873~1918)
第2章 英語参考書の進化(1900~1910代)
第3章 受験英語の過熱と拡大(1919~1936)
第4章 戦時体制と受験英語の受難(1937~1945)
第5章 戦後の受験英語(1945~2010)
第6章 戦後のヴィンテージ英語参考書
エピローグ 受験英語はどこへ行く 目次

以下、この本を読んだ感想です。

目次

受験英語参考書コレクターのマニアック分析

著者の江利川氏は明治以降、どのような英語参考書が出版されたか克明に調べ、受験英語が日本人の英語力の向上にどのような役割を果たしたか「分析」しようとします。「分析」がカッコつきなのは、実際にはまともな「分析」がなされていないからです。それは江利川氏が英語力に乏しいからか、それともリサーチ・メサッドがどういうものかわかっていないのか、そのどちらなのかはわかりません。両方なのかもしれません。もしかしたら英語力も方法論の知識もあるにもかかわらず、受験英語参考書のコレクターでもある江利川氏は英語参考書を「批判的」に見れなかったのかもしれません。

多くの人が、山崎貞、佐々木高政、赤尾好夫、森一郎、高梨健吉、原仙作、伊藤和夫の名前を聞いただけど受験時代の記憶を呼び覚まします。だから受験参考書マニアの人には本当にたまらない本なのだと思います。そうでない人も過去にどのような英語参考書が出版されたか知ることができます。ただし過去に出版された英語参考書をいっさい「批判的に分析」していないので、それらが日本人の英語力向上にどれだけ影響を与え、貢献し、逆に妨げになったかまったくわかりません。本書は以下の言葉で締めくくられています。

「受験英語が生んだ日本人にふさわしい英語の教材や学習法は、教育制度や入試制度が大きく変わろうとも、後世に残すべき豊かな知の遺産を含んでいるのである。」(p.305)

ちゃんと英語の受験参考書の内容を「分析」してこの結論に達したのであればよいのですが、江利川氏にとってこれは「仮説」ではなくて「前提」となっています。だからこの本では受験用の英語参考書は名著ばかりということになっています。

「1921(大正10)年に開文社から発行された岡田實麿の『英作文着眼点』は、英作文参考書史上に残る傑作である。」(p.147)

「出典の神様」の異名をもつ原仙作が書いた『英文標準問題精講』」(p.192)

「祐本寿男の『頻出英語長文解法40講』(研究社、1992)は、文字通り入試頻出の英語長文を集めた名著。」(pp.199-200)

「小野圭は巨人である。」(p.213)

「その「英頻」だが、さすがの伊藤和夫も上垣の快著『即戦ゼミ③ 英語頻出問題総演習」(駿台文庫、1985)には勝てなかった。」(p.226)

「多田正行『思考訓練の場としての英文解釈』─鬼才による至高の奇書」(p.233)

「佐々木高政は語り(ナラティヴ)の名手だから、本文が面白い。独特の語りの魅力は、たとえば名著『英文解釈講』(金子書房、1980)の序文などでは「感動」の領域に達する。ヘーゲルも『大論理学』で言っていたが、名人が積年の経験に裏打ちされて語る言葉の重みと説得力は、同じ言葉を若造が語った場合とはまったく異なるのである。」(p.240)

古藤晃編『クラウン受験英語辞典』─「受験英語史上に残る傑作である。」(p.241)

森一郎『試験にでる英単語』(1979) ─「単語集のコペルニクス的転換』(p.242)

成田成寿の「『高等英文解釈研究』は研究者出版(現・研究社)から1951(昭和26)年に発行された。全211頁と小ぶりなから、上級者向け英文精読の名著である。」(p.250)

荒巻鉄雄 『現代英文解釈』(1934) ─ 「英語参考書史に残る名著である。」(p.257)

「芹沢栄の『英文解釈法』(金子書房、初版1953、3訂版1958)は美しい参考書だ。眺めているだけで惚れ惚れする。」(p.262)

河村重知郎・吉川美夫・吉川道夫 『新クラウン英文解釈』(1969) ─ 「ため息が出るような完成度。先に紹介した芹沢栄の『英文解釈法』も美しかったが、その上をゆく完成度である。」(pp.272-3)

受験英語参考書のコレクターだけあって、本当に英語参考書が大好きなんですねえ。でもそれは「個人の趣味」の領域に属することです。わたしの知人にタミヤのプラモデル大好きのコレクターがいます。見てて微笑ましいです。「大の大人がプラモデルかよ」といつも茶々を入れていますが、「この●●年式の××戦車は…」といった熱弁が止まることはありません。でも彼はけっして「日本にはプラモデル文化があるから手先が器用になって日本経済を支えた」といったバカなことは言いません。江利川氏も何の実証分析もしないで、受験英語の参考書を褒め称えるのはいかがなものでしょうか。

特に注目したのは、受験の伴侶となった学習参考書の中身の検討である。そこで再認識させられたのは、受験参考書こそは日本人にふさわしい英語学習法の宝庫だということだ。…こうした受験参考書が日本人の英語力向上に果たした役割は計り知れないほど大きい。」(p.iv)

「本書も含めて、これまで本章で紹介してきた英作文参考書は、すべて1950年代までのもの。日本の英作文参考書は1950年代には完成の域に達していたのではないか。」(p.295)

「など、世界でも類例がないほどの優れた英語参考書を生み出してきたのである。こうした独自の教材と学習法からなる受験英語によって、高度な英語を読みこなせる日本人が数多く育成され、海外の優れた文物を翻訳・摂取することが可能になった。これらが日本の近代化を支えてきたのである。」(p.305)

しかし、この本をいくら読んでもその根拠は示されていません。

受験英語の歴史の頂点に立つ伊藤和夫

江利川氏が一番好きなのは駿台の伊藤和夫氏です。

プロローグのタイトルは「受験英語の巨星・伊藤和夫」

1964年に出版された伊藤氏の『新英文解釈体系』は「幻の名著」(p.4)、「英語教育史における画期的な著作」(p.5)

「こうして、彼は次なる傑作参考書群の執筆へと邁進する」(p.6)

「こうして、1964(昭和39)年に初めて姿を現した伊藤和夫の英文解釈体系は、晩年にいたるまで進化を続け、入門レベルから上級レベルまで、短文から長文、そしてテーマ別に至るまでの壮大な体系に進化発展したのである。」(p.8)

「伊藤和夫の英文解釈法は、英文和訳にとどまることなく、英文を英文のまま直読直解する方法を切り拓いた。その点で、旧来の英文解釈書の改良的な延長ではなく、革命的な転換をもたらした。」(pp.9-10)

「伊藤和夫 『英文解釈教室』から『ビジュアル英文解釈』へ─戦後受験英語界の巨星による作品群」(p.228)

『ビジュアル英文解釈』について─「芸術的と言えるような繊細さと整合性をともなった伊藤の壮大な構造物である。」(pp.230-1)

「私はここに、明治中期から発達してきた日本人本位の学習法である「英文解釈法」の一つの到達点を見る思いがする。だが、その到達点は1964(昭和39)年に、さらに革命的な飛躍をとげる。伊藤和夫の登場である。」(p.265)

伊藤和夫 『新英文解釈体系』─英語教育史に残る英文解釈の革命的方法
革命的な内容を持ちながらも、早すぎる登場によって歴史の闇に消え、伝説のみが残る本がある。伊藤和夫の最初の単著『新英文解釈体系』が、まさにその例だ。」(p.266)

「こ のように、もっとも基本的で単純な要素である「主語+動詞」から始まり、だんだん複雑な構文へと展開されていく。こうした叙述の方法は、ヘーゲルの『論理学』やマルクスの「資本論」を想起させる。いかにも哲学科出身の伊藤らしい。…ヘーゲルが言うように、革命的なものは一度では理解されない。「はじめは単 に偶然的、可能的なものとしか見えなかったものも、反復されることによってはじめて現実的なものとなり、確認されることになるのである」(『歴史哲学』下 巻128頁)。『新英文解釈体系』は、まさにそうした本であった。」(pp.269-271)

本書はその伊藤和夫で始まり、伊藤和夫で終わることになった。…明治以降、南日恒太朗、山崎貞、小野圭次郎、原仙作らが築いてきた受験英語の歴史の頂点に立つのは、伊藤和夫をおいて他にない。これが今回の研究を通じての一つの結論である。」(p.316)

ほんとうに伊藤和夫が大好きなんですねえ(´・ω・`)

本当に昔の受験英語参考書は素晴らしかったのか

江利川氏は日本の英語参考書は素晴らしかったと絶賛します。「素晴らしい」は「くだらない」との対比において出てくる評価ですが、江利川氏にとって 「くだらない」と感じられるものが何か不明です。本書で江利川氏がしつこく批判しているのは文科省の英語教育改革ですが、市販されている英語参考書と英語教育改革は「対置」されうるものではありません。今のオーラルも重視した英語教育に対置されるのは、英文法・英文解釈・英文和訳・英作文を中心 とした旧来の英語教育です。江利川氏は後者を高く評価しているのですが、たとえ後者が素晴らしかったとしても(私はそうは思いませんが)、だからといってそれに準じて作成された英語参考書も素晴らしかったという事にはなりません。「昔の読み書き中心の英語教育はよかったが、受験屋が作る英語参考書はひどかったな」という主張も展開しうるのですから。そうなると、彼が何との比較において受験英語参考書を高く評価しているのかわからなくなります。常識的に考えれば、過去に出版された英語参考書が名著ばかりなわけはありません。良い参考書もあれば、いまいちな参考書もあったはずです。だから英語参考書の良しあしは英語参考書以外のものとの比較ではなく、英語参考書間で相対的評価をすべきです。つまり、「●●は高く評価できるが、××は問題点が多くて、あまり良い参考書とは言えない」といった議論を展開すべきであったはずです。しかし、英語参考書マニアの江利川氏は英語参考書を「批判的に検討」することを最初から放棄します。せめて例文も出さずに英単語を丸暗記させる森一郎の『試験に出る英単語』や、悪文だらけの伊藤和夫の『基本英文700選』くらいはその問題点を指摘してもらいたいものですが、ネガティブな評価がいっさいありません。昔の英語参考書はネイティブチェックがされておらず、おかしな例文なんていくらでも出ていたはずですから、もっと真剣にチェックしてほしいものです。

本当に昔の学生は英語ができていたのか

上記の感想は英語参考書の良しあしを従属変数としてみた場合です。それを独立変数として見なすと、江利川氏は大学受験用の英語参考書が素晴らしいことで何が良かったと考えているのかが気になります。おそらく大多数の人は「日本人の多くは今も昔も英語力が非常に乏しい」と考えているかと思いますが、だったら過去の英語教育も何らかの問題があり、受験英語参考書もその問題の一端に担っていると推測するのが妥当でしょう。「日本人の英語力を向上させるためには、英語学習改革が必要であり、受験英語参考書による学習も批判的検討が要せられる」という発想のどこにも違和感は感じられません。

むろん、受験英語参考書は素晴らしかったが、ほかがひどかったので日本人の英語力はあまり伸びなかったという主張は可能です。しかし、江利川氏はそうは考えていません。彼は一貫して、昔の学生は英語力があった、と主張しています。そうなると理屈は通ります。「大学受験用の英語参考書は非常に効果的な教材であったために、それが隆盛を極めた頃の受験生の英語力は高かった」と。

そう主張することで、江利川氏は受験参考書が隆盛を極めたころの、英文和訳と和文英訳を中心とした英語学習とそれをサポートしてきた受験英語参考書をほめ称え、文科省が勧める英語改革を徹底的に批判します。

「1990 年代から経済のグローバル化が進み、経済界からは英会話中心の「実践的コミュニケーション能力」の育成が求められた。…しかし、英語の日常会話は日本国内では非日常的である。行きすぎた会話中心主義の下で、『英語がわからない』生徒の割合が増え、英語学力の低下と格差を指摘する研究者も多い。」(p.v)

「なによりも、このオーラル重視の指導要領下で、中学でも高校でも深刻な英語力低下が進行した。その事実を実証した研究が相次いでいるのである(本書205 頁)。だが、指導要領を作った人たちは誰ひとり責任を取らない。しかも、高校では科目から「リーディング」も「ライティング」も削除し、「授業は英語で行うことを基本とする」などという学問的根拠のない方針を押し付けてきた。」(p.232)

「2009 年告示の高校学習指導要領では「リー ディング」とともに「ライティング」も廃止するという歴史的愚挙に出たので、英作文の力は一段と落ちてしまうだろう。だからこそ、『和文英訳の修行』のよ うな参考書の需要が高まるに違いない。愚かな政策から生徒の身を守るために、名参考書のマス的需要はますます増す。」(p.239)

昔の高校生よりも今の高校生の方がスピーキング・リスリング力は高いと思うのですが、江利川氏はスピーキングとリスニングに関心を示しません。確かに彼が主張するように、リーディングとライティング力については昔の高校生の方があったかもしれませんが、今よりもまだましという程度の事であり、またそれが受験参考書のおかげかどうかはわかりません。リーディングとライティングを軽視するな、という江利川氏の主張にはわたしも100%賛成します。ただし、リーディングとライティングを重視するからこそ、高校生は英文和訳と和文英訳の学習をする必要がないと考えています。「英文法」は大事ですよ。でも 「英文解釈」の勉強をする必要はありません。

しかし、江利川氏は英語学習に英文和訳と和文英訳の習練は不可欠だと説き、それ故に、英文和訳と和文英訳をトレーニングする受験英語参考書を高く評価します。

英文和訳による英語学習

「平成の今日では、英語を和訳させることはよくないといった主張が目立つ。…しかし、日本人の英語学習にとって、和訳はそんなに悪いことなのだろうか。分析的な精読ではなく「概要や要点をとらえる」だけの粗雑な読み方で、本当に英文が読めるように なるのだろうか。伊藤和夫はすでに『英文解釈教室』(1977)の「はしがき」で次のように反論している。

訳読中心の学習法を批判すること は戦後の流行である。しかし、批判者は新しい学習法として何を打ち出したのであろうか。…最近の文法軽視の傾向と相まって、現在の英語教育の成果はかつての訳読法中心時代のレベルにも達していないのではないかとの危惧を筆者は抱かざるを得ないのである。」(pp.74-5)

「英文を読んで漠然とわかったような気になっている学生に、いざ訳させてみると意味をなさない。こうした受験生の問題については、古くから厳しい指摘がなされていた。」(p.75)

「英文解釈における日本語の役割は、英語のレベルが日常伝達能力の守備範囲なのか、高度な内容について読み書き、論じるための認知学習言語能力のレベルなのかによって異なる。”Nice to meet you!”などの日常伝達能力レベルならば日本語の介在は最小限でよいだろう。しかし、入試レベルの高度な英文となれば、自分の持てる日本語力(=思考力)を総動員した認知学習言語能力の出番となるのである。このレベルでは、英語力のみならず、豊富な背景知識(教養)を持ち、母語である日本語で論理的に考え、表現する力が身についていないと使い物にならない。

こうした認知学習言語能力を測るためには、日本語に訳させることが効果的な場合が多い。和訳を見れば、英語力とともに日本語力および思考力が如実にわかるので、将来の英語力の伸びもある程度予想できる。英文和訳には、母語を再認識し、日本語力を鍛え上げ、思考力を磨くという積極的な意義があり、10代の若者には特に必要な訓練である。そうして鍛錬された母語力こそが、外国語力を高め、言語力を高めるのである。」(pp.81-2)

時代環境は変わっても日本人の英語学習にとっては変わらない部分がある。それが学校英文法であり、それにもとづく訳読なのではないだろうか。川本皓嗣は『翻訳の方法』(5頁)で次のように述べている。

学校文法と訳読に重点を置くという方式は、限られた時間内で英語の初歩をしっかり学ぶだけではなく、その上で練習を積めば、やがてまともな英語が使えるようになるための基礎を、最短距離で習得できるように工夫されたものです。

この言葉の正しさを、山崎貞の参考書は証明している。」(p.114)

「こうした人々が開拓してきた英語学習法を無視しては、日本人の英語力は向上しないのではないか。たとえば、外山滋比古が「我が国の英語英文学界の誇るべき業績の一つ」と喝破した英文解釈法は、今では見る影もなく廃れてしまった。そのおかけで日本人の英語学力はどうなったのか。少なくとも読解力に関する限り、 大きく退行してしまった。」(p.316)

次は「英作文」。

英作文による英語学習

「こうした和文英訳のノウハウは、記述式の問題が出題されたからこそ生かせた。しかし、マークシート方式の流行で、英作文問題は単なる空所補充や整序問題に堕してしまった。それはあたかも電動工具が大工の職人技を奪ってしまったように、明治から蓄積されてきた和文英訳の職人芸を葬り去ろうとしているのではないだろうか。」(p.281)

「英作文の参考書は1950年代が黄金期だった。この時期、日英比較の枠を集めた優れた英作文参考書が生まれた。しかしその後の入試では、和訳や英訳に代わって客観問題が急増し、長文や口語的な英語が増えたことで、英文解釈や英作文の参考書は次々に絶版となった。1990年代以降はオーラル・コミュニケーション重視策も加わり、特に英文の読解力と英作文の力が大きく後退した。それらは狭義の英語力にとどまらず、言語力や思考力の退化を招いているように思える。これらを食い止めるための方策を真剣に考えるべき時期に来ているのではないだろうか。

1950~1960年代までのヴィンテージ参考書には、そのためのヒントと方法が詰まっている。」(p.297)

日本語力向上のための英語学習

そして江利川氏は、訳読法が日本人の英語力だけでなく、日本語能力を高めるために不可欠だと主張します。

和訳の衰退は日本語の衰退にもつながる。…まさに、日本における外国語学習の目的の一つは、日本語を豊かにすること、その豊かな日本語で豊かに思考できる人間を育てることなのである。「授業は英語で行うことを基本とする」という学習指導要領の方針は、その貴重な機会を奪ってしまう。へたをすると愚民化政策に なりかねない。」(pp.76-7)

話は脱線したが、外国の文章を正確に訳読することは、自国語を豊かにすることにつながる。そのことを明治の先人たちは実例で示してくれた。」(p.78)

「言語は思考の媒体だから、言語形式の把握を通じて、その背景にある思考(思想)をつかむことこそが本来の英文読解である。そのことを、伊藤和夫をはじめ、多田正行、薬袋善郎、入不二基義、奥井潔らは学習参考書を通じて追及してきた。しかし、1979(昭和54)年の共通一次試験の導入を1つの契機に、こうした思考力を、とりわけ和訳という手法で問う問題が減少していった。この面では、日本人の英語力の「退化」が進んでいるのではないか。現在流行のTOEIC だけでは知性も思考力も身につかない。学校教育としての英語科教育には、英語学習を通じて思考力を高めることがもっと追及されてもよいのではないだろう か。

その思考力を高めるという意味では、和文英訳の修行も欠かせない。」(p.236)

教養のための英語学習

江利川氏によると、中高校の英語のクラスは英語力を高めるのが唯一の目的ではなく、日本語力をつけ、教養を深めるものでないといけないそうです。

「私は、英語教育政策の立案に携わる人にも「英文であろうと日本文であろうと思想的、哲学的内容を持ったものを極力読まれることをおすすめする」。「哲学の貧困」─これこそが、2009年に改訂された高校学習指導要領(外国語)の特徴であるから。」(p.222)

「高校の英語の授業は英語だけで行うべきではなく、日英比較を通じて母語である日本語を再認識させ、言葉の多様性と奥深さに気づかせるべきである。」(p.288)

教養がないと英語を理解できないそうです。

「私がかつて予備校で教えていたときに、単語帳や頻出例題集をボロボロになるまで暗記していた学生がいた。しかし、偏差値はなかなか上がらなかった。話してみると、一般教養がきわめて乏しかった。新聞も読んでいない。これでは、単語の意味はわかっても、背景知識(スキーマ)がないため、英文の中身は理解できな い。

現在主流となった極端なスキル主義の行き着く先は、こんな知の砂漠ではないだろうか。」(pp.263-4)

「教養とい えば、文部省は財界の意を受けて1990年代初めに大学の教養部を解体し、「すぐ役に立つ」専門教育を重視した。その直後の1995(平成7)年にオーム真理教による地下鉄サリン事件が起きて、マインドコントロールに対抗できる教養の大切さが再認識された。実はその「教養」こそ、英文解釈あるいは「英語が読める」ための基本要件である。」(p.263)

江利川氏の文部科学省批判

このような観点から、江利川氏は英語の授業はできるだけ日本語を使わずにするのが望ましいとする文科省の姿勢を批判します。

「1948(昭和23)年に、文部省は「学力検査の英語問題作成について」と題して、翌年からの大学入試の標準的な例題を示した。その後、省内に研究委員会を設けて大学側と高校側の双方から入試問題を検討し、毎年『大学短期大学等学力検査問題作成の参考資料』を配布して行政指導を続けた。英語関係では「英文和訳、和文英訳の問題は判定に多分の主観がはいってくる危険がある」として英文和訳や和文英訳に偏ることを厳しく批判し、聞く、話す、読む、書くという4技能全般にわたる能力を評価するよう指導した。」(p.179)

「文部省の行政指導は執拗に続き、1956(昭和31)年の『問題作成の参考資料 外国語科編』でも「英文和訳、和文英訳偏重の傾向がまだ強い」と指摘し、「従来の解釈、作文、文法というような出題形式の影響からまだ脱しきれず」、「こ の形式の問題が評価の客観性を欠くおそれがある」と述べている。なんともしつこい。」(p.180)

「1980 年ごろから、日本の(特に高校の)英語教育は「退化の段階」に入ってしまった。文科省、というより財界の「コミュニケーション重視」(はっきり「英会話重視」と言うべきだ)によっ て。日常生活で英会話を必要としない日本国の英会話中心主義、その「おかしさ」に気づくべき時期ではないだろうか。」(p.257)

感想

ふうむ。日本英語教育史学会の会長を務めた方がこんなことを言っているわけですね。すでに引用ばかりで文章が長くなりすぎているので、細かい説明抜きで反論しますが、

①受験英語で英文和訳や和文英訳の学習をしてもとくに日本語能力は高まりません。「英文解釈」の学習で切り貼りされた英文を読んでも大した教養は身に付きません。

②英語のリーディング力をつけたければ、英文和訳の学習をするのをやめましょう。『受験英語と日本人』に出てくる「英文解釈」の参考書を使う必要はありません。英語リーディング力をつけるためには、日本語を介さずに英語を理解するくせをつける必要があります。

③英語のライティング力をつけたければ、英作文の学習をするのをやめましょう。『受験英語と日本人』に出てくる「英作文」の参考書を使う必要はありません。プロの翻訳家は誰でも辞書を使って和文英訳しているのに、なぜ大学受験生は辞書なしで日本語を英語に訳する苦行を強いられているのでしょうか。

④スピーキングとリスニングの力をつけることも大切なので、読み書きばかりに専念しないでください。

⑤ボキャブラリーは大事です。でもちゃんと文章の中で英単語を覚えていきましょう。『受験英語と日本人』に出てくる丸暗記主義の「英単語」の参考書を使わないでください。

⑥英文法は大事です。「英文解釈」は無視していいですが、英文法はしっかり勉強してください。

これらの主張に異論がある人も多いかもしれませんが、この本の問題は何ら「分析」をしていないので私のような考えを持っている人に何ら心に響かないし、訳読中心の受験英語や英語参考書の何が良いのかまったくわからないことです。江利川氏にとって、「翻訳の学習を通してでないとリーディング力とライティング力かつかない」という仮説はその仮説が正しいかどうか実証分析すべき研究対象ではなくて、そうであってほしいという彼の信念・信仰にすぎないのですから。

むろん本書での主張すべてが信用置けないではありません。正しそうなことも言っています。

「伊藤が独自の英文解釈論を打ち立てるにあたっての脳裏にあった仮想敵は、 『公式応用 英文解釈研究』(1912)に始まり、戦後も絶大な人気を博した山崎貞や小野圭次郎らの伝統的な英文解釈法だった。伊藤は、山崎に代表されるそれまでの英文解釈書は「熟語表現への過度の傾斜と、日本語を媒介とすることへの無邪気な信頼がある」ため、「外国語→日本語→事柄」という倒錯した流れになっていると批判した。これを克服するために、どのようにすればネイティブのよう に英文で書かれた順に左から右へと情報処理できるのかを考え、「英語→事柄→日本語」という直読直解的な読解法を追求したのである。」 (pp.228-9)

「以上をまとめて、山田は次のように総括している(54頁)。

英作文の上達には出来るだけたくさん易しい現代の英語を読み、それを真似、それで覚えた英語らしい表現を利用して、但し特に気取った書き方をして人を驚かそうとなどとはせず出来るだけ素直で自然な英語を書くようにすることが大切だ。

噛みしめるべき言葉だろう。英語を読み、まね、覚えるという地道な努力で獲得したものしか、自分の血肉はならないのだ。」(p.284)

伊藤和夫氏が言うように英文の理解は「英語→日本語→事柄」ではなく「英語→事柄」から「事柄→日本語」のプロセスをたどりますが、「英語→事柄」の時点で英語を理解できていますから、翻訳に興味がなければ「事柄→日本語」のプロセスをたどる必要はありません。日本語に訳そうとする試み自体が英文の正確な理解を妨げます。外国語を「100%正確に」母国語に言い換えることは不可能です。英語でそのまま理解したものを日本語に置き換えるという作業は正確な理解をデフォルメします。例えば、clarify, uncover, revealという動詞は意味が微妙に異なりますが、すべて「~を明らかにする」と訳すると、なぜこの場面でclarifyではなくuncoverという動詞を使ったかいったことがわからなくなります。日本語を使うことで英語の理解力が下がるわけです。英語学習者は翻訳の勉強をする暇があったら、ひたすら英文を読んで「英語→事柄」の能力をつけるべきです。

ライティング力向上のためには「出来るだけたくさん易しい現代の英語を読み、それを真似、それで覚えた英語らしい表現を利用」するのが大切という山田和男氏の主張も正しいです。だから英作文の授業でちんたら日本語の文章を英語に訳する暇があったら、実際に使えそうな英文をひたすら覚えていきましょう。1時間の授業で3つの和文を英訳するよりも、10の英文を覚える方がライティング力はつきます。

最後に、伊藤和夫氏の直読直解法について。

「伊藤が『英文解釈教室』で試みたことは、英文を読む際の「基礎的な約束を明らかにすることから出発し、その原則に基づいて英語の構造を分析し、読者とともに考えることを通して、英語を読む際に具体的には頭はどのように働くのか、また働くべきなのかを解明すること」(「はしがき」)だった。言い換えれば「直読直解への1つの方法の提示」を行ったのである。」(p.228)

「もちろん、長所は同時に短所でもある。こうした受験英語によって…英文を分析して和訳しないと気がすまないと言った癖を身につけたことは事実であろう。しかし、これらの弱点を克服し、英文を英文のまま直読直解する方法を切り拓こうとした伊藤和夫のような人物もまた、受験英語陣営の内部から生み出されたのである。」(p.305)

英文は訳読するな。返り読みをしないで前から順に理解していけ、というごく当たり前のことも、江利川氏の手にかかれば、伊藤和夫氏の偉業になってしまうようです。

いやいや、英文を直読直解できるようになりたいのであれば伊藤和夫氏の参考書を読まないことをお勧めします。

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